真夜中のサングラス

夜中に無意味なことをつらつらと

束の間の狂気、信用、、属性

世界は変わる。変わり続ける。確かなものなんてないのか?それでも確かなものはひとつある。それは今、この文章が誰かに届いてるかもしれないこと。

もしかしたらテキストごとアーカイブされ何億年も未来の誰かに届いてるかもしれない電波の残骸。

澱。

過去と未来。すべては時系列。

このテキストを何年も先の未来の誰かが読んでいるかもしれない。

宴の終わり。楽しい時は刹那。苦しみの方が長いこの世の中で何を遺し何を思い何を紡ぐ?

くだらない世の中のニュースを横目に、惑わされないようにどこを目指す?あなたが誰で何者かは何の関係もない。

毎日、いつも失敗し続けてきた。それでも願う。まともでいることの方が難しい世の中で。

この苦しみはいつ始まったのだろう。気づけば一つのことに集約している。資本主義社会の中で価値のあるものはひとつ。金。

金の中で生きるしかない。

金を生み出したもん勝ち。

預金通帳を眺めながら死ぬのか?

そこから抜け出すことはできないのだろうか。生きれば生きるほどこの虚無の折の中でもがく日々。

信用創造。その枠組みを越えることはできないのか。

その程度の人生か

 

カイジ、石田さん、克己(こっき)!!!

カイジの鉄骨渡りと言えばカイジの中でも理不尽なエピソードのひとつですね。ギャンブル漫画がベースかと思いきや、気力のみで鉄骨を渡ることに主軸を置いたこのエピソード。

カイジといえば今でこそ様々なギャンブルを主軸にして駆け引きをしている印象ですが、ただ鉄骨を渡るというシンプルな話なのに、命をかけるとこんなにもドラマチックに描けるのかと衝撃を受けた話です。

例えば落ちても死なないくらい低い鉄骨を歩くのは誰でもできますが、それが何メートルもの高さの鉄骨の上だと人は臆するでしょう。それが何メートルなのかは人それぞれですが、ある程度の高さまでいけば誰でも命の危険や怪我の危険を感じるでしょう。

いよいよ死ぬのが確実な高さになったときにどんな行動をするかで人間の本質がでるのでしょう。

そんなときに石田さんが下した判断は本当に驚愕です。安全地帯でショーを楽しむ大富豪たちには決してできない覚悟を感じます。

ただ無言でカイジに未来を託す。無言で鉄骨から落ちるというのは中々できることではありません。自分の人生の最後を泣きわめくことなくただ無言で終わらせる。

そんなことできるだろうか。自分より大事な存在のために自分の人生を投げ出すこと。

まさに強く死ぬ!前のめりで死ぬ!

例えば自分の子どもができたら無償の愛で、そんなこともできるかもしれません。しかし現実の現代の世の中で所詮は他人の、恋人や配偶者のためにそこまで命をかけれる人はどれくらいいるのでしょうか。

それでも石田さんはやってのけた。借金から逃げる妻のために。黙って鉄骨から落ちる。希望をカイジに託す。

人間は所詮は最後には自分が可愛いのだろうと思ってました。

そして石田さんとは対比的な描かれ方をする佐原。彼は若さゆえに自分の野心をとる。死ぬことではなく、自分こそ生き残り大金を掴みたいと言う思いが強い。

だからこそ彼は成功に近づく。自分だけの幸せのために。しかし、それ故に希望の階段を見つけれなかった皮肉。

希望とは温度。通信は伝わらない。他人とわかり合えることはない。それでも人に託す。伝わるかはわからない。

それでも熱量を遺すしかない。生きた熱は本当だから。

どこにも伝わらないとしても熱量があったこそは本当。

カイジではなくアカギの名言ですが「熱い三流なら上等」という言葉があります。

一流にはなれなくても、結果はでなくても、見下されても、それでも熱く熱量を残せれば上等だろう?

私は一流ではない、世界的なメジャーリーガーにもなれない、名医にもなれない、大富豪にもなれない、聖人にもなれない。

俗っぽくちんけな人生かもしれない。それでも凡庸に死ぬ。そんな人生かもしれない。

それでも熱ければいい。誰よりも熱を失わなければ上等。情熱(パッション)を持ち続けることができるなら。

賭博黙示録カイジの鉄骨渡り編は5巻後半から読めます!是非!!矜持を!

福本作品は人生のバイブル!!

※克己(こっき)とは自分の欲望や感情、邪念に打ち勝つことを意味する言葉だそうです。

AIがもたらすもの

いよいよSFみたいな世の中がやってくる。AIが人類を滅亡させるとかのニュースを目にすることが増えた。

私たちは人類史上最高の転換期を目にするのかもしれない。神が人を作ったというのなら、人は神という概念を作ったのだろうか。そして、人は人を超えるものを作ろうとしているのだろうか。AIがAIを生み出すようになったら人には理解できない世界でAIは発展するかもしれない。

この先5年前以内にはかつての人類史では考えられないシンギュラリティを経験するのかもしれない。

まさに、我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

時間の速さ

年とともに時間が早くなるのは当たり前なのだろうか。子どもの頃は毎日長かったような気がする。

大人になるとどんどん早くなる?大人というか仕事を始めてから早い気がする。平日は8時間は最低でも仕事。

仕事とはつまり自分以外のことに時間を使わないといけない。休みの日も何だかんだ家事や雑務に追われている。

だからスキマ時間に無理やりにでも趣味を消化しないといけない気持ちになる。消化しているということは集中していること。

つまり退屈を感じている暇はなくなった。常に効率や余暇や可処分時間について考え、効率よく生きることばかり考えている。

退屈がなくなった。子どもの頃は退屈ばかりの日々だった。スマホができてからさらに退屈することは減った気がするな。秒単位でショート動画が刺激を提供してくる。

大昔の科学者や数学者は時間があって、ぼんやりとでも難題に向き合っていたから凄いことを成し遂げたんだろうな。福本先生の天でも言っていたけど、ガリレオやニュートンは重力の存在や地球が高速で回転してることに気づいてしまうくらいの発想。

それって難題に日々向き合うからできたことなんだろう。その時代にYouTubeやTikTokがあったら見つけれなかっただろう。天才とは退屈な時間に向き合えることなのかもしれない。

 

世の中

 

気づけばAI時代。いつのまにやら。AIこそがいよいよ人類の仕事を奪うらしい。実際すでにAIが作るものの方が遥かに早く高度になってきている。

この先数年でもっと賢くなるだろう。

人間は必要なくなるのだろうか。世界は少子化している。韓国は特にひどいらしい。政府の政策も効果は薄いとか。日本に限らず世界的に効果がないなら、日本の政府が悪いのではなく、少子化に対しての政策自体世界的に効果薄いのだろう。ほとんどが資金的なサポートしかないらしい。

たしかにお金以外でどうやって少子化防ぐか浮かばない。

それこそAIに考えてもらってやればいいのだろうが、中々言うのと実行するのでは難しさが違う。言うは易し。

そもそも少子化はいけないことなのだろうか。地球環境の面から見れば人間は少ない方がいいだろう。

誰にとっての問題かによって見え方は違う。移民を受け入れればいいのか?移民もまた問題が多いらしい。

日本の小さな職場でさえ問題だらけなのに、移民が根付くのは難しいだろう。

しかし外国人は確実に増えてきている。今日もコンビニに行ったら店員も客も外国人の方が多かった。

この国も時代も変わり続ける。

覚悟して泣いて

死生観

不思議な言葉ですね。人間しか考えないでしょうこんなこと。動物にとっては目の前の獲物が全て、先のことより目先の獲物。人間だけが遠くを見据えた利益と今とのバランスを考えれるのではないでしょうか。リスクヘッジ。人を人たらしめるものの一つとして、想像力があります。想像と創造。スクラップ&ビルドで新しいものを生み出し続けてきたのでしょう。代謝や細胞分裂に近い。ガイア理論というものがあります。地球そのものが一つの生命体としてみて、我々人類はそこで営む細菌のようなもの。痛みこそ全て。覚悟とは痛みそのもの。愛とは覚悟。つまり愛と痛みは同一。愛する時は、温もりを得る代わりに相手の痛みさえ引き受ける覚悟が必要です。確かに本当に愛する人の苦しみは、どんな痛みであれ代わってあげたいと思います。だから親が子に対して思う愛情は深いのでしょう。そしてそれは次世代へと受け継がれていく。人類の歴史とは痛みの継承そのもの。少しでも良い明日を未来の子どもたちへ。そんな願いで偉人達が歴史を紡いできたのでしょう。

一瞬の夢と覚悟

悪いニュースが溢れ、人の負の面ばかりを見てしまいがちな時もありますが、豊かな暮らしの恩恵を感謝する日があっていいのではないでしょうか。遠い過去に比べるとはるかに過ごしやすい現代。特に温度による不快感がないことは、冬の始まりにひしひしと感じます。どこへ行っても空調が完備されています最近は。また衣食住が事足りています。それでは何を信じれば幸せになれるのでしょうか。愛という概念こそ幸せになるきっかけでしょうか。では愛を失った人は生きるに値しないのでしょうか。そんなことはないですね。私は覚悟こそ生を享受する代償かと思います。つまりあらゆる幸福は、あらゆる厄災を受け入れる代償。地獄の業火に身を焼かれても、想像しうる最高の夢や幸福を夢想できる。それだけでも生の本質。つまり、どんな過酷な環境でも、どんなに甘い夢を観れただけでも生きるに値する。

生まれた環境を選ぶことはできない。けれど私は、私に生まれてきたからこそ、私らしい幸せを感じることができる。人と比べるとなんてことない人生かもしれない。それでも相対的な価値ではなく、絶対的に私は私に生まれてきてよかった。それが全て。これ以上でもこれ以下でもない。ただ私は私でいられることが誇りであり、信じることができる唯一の真実。迷いや時代の価値観に染まらない、ただただ遠い過去の両親の愛が今の私の行なう全てに繋がる。そんなにも素敵なことは他にあるのでしょうか。人類の壮大な歴史のほんの些細な出来事かもしれない。それでも確かに、確実に私は私というバトンを繋ぐことができる。受け渡すことができる。私にとってこれ以上に意味のあることはないのではないか。

女性の勢いを感じる90年代

人はなんで時に過去にすがりたくなるのでしょうか。幼少期に感じた音と光、そして匂い。それらが心の奥底に残り続けるのでしょう。生まれ持った資質でなく、後天的なものが人格や人間性を作るのでしょうか。そんなことを考えている夜に聞きたい曲をピックアップしてみました。

あなたに会えてよかった/小泉今日子 1991年
慟哭/工藤静香 1993年
世界中の誰よりきっと/中山美穂 1992年
雨/森高千里 1990年

おわかりの通り、80-90年代の女性アイドルの楽曲ですね。今見ると渋い曲名が多いですね。慟哭とか。しっとりと歌い上げるこのケレン味が、幼少期の私の根本に根付いたのでしょう。今聞いてもこの当時をなんとなく記憶でなく、感覚で思い出します。人の想いは、脳だけでなく音や光や匂いが司っている気がします。つまり感覚器官のどこかに染み付いているのでしょう。そして時々それを呼び戻したくなる。思い出っていいものですね、そしてこれを何十年経っても忘れたくない。 

さよならとか。ぜんぶ。眩しいから薄眼で睨む、透明な思い出。

不思議な感覚。異性というのはいつまでも遠い存在のような気がします。たまに、心が通って溶け込んでしまいそうな時もあれば、永遠に交わらない平行線のような虚しさを感じることもあり。何ががうまくいったことは一度もないかもしれません。いや、うまくいったことは何度かありました。うまくいき続けたことがなかったのです。うまくいかないようにしていたのかもしれません、どこかで。

初めて見た映画の思い出

新しい出会いを求めていたのは、前進ではなく逃避だったのでしょう。逃れられない運命の呪いから逃げて、気づけば知らない街で一人きり。次の瞬間はどこにいるかもわかりません。ただ一つ言えることは、隣にあなたはいないでしょう、絶対に。一人で生きて行こうと何度も覚悟したつもりだけれど、気づけばあなたがいる生活を想像してばかり。そうやって小さな希望は少しずつ削られていき、空っぽの中に閉じ込められる。窓から見える夕日が落ちる時、今日一日が終わる時、いつも思い知る。きっと最後の時もこうして、一日の終わりを感じているのだろう。

そろそろ前に進みましょう。掴んだ手が私を拒むなら、いつまでも掴んではいられません。細く痺れたあなたの腕、痺れを切らした私の手。思い出だけを心にしまい、何食わぬ顔でまた会おう。あなたのことを忘れた頃に。

涙の跡

次はどんな顔して会いますか。私は何が好きでしょう、他愛も無いことから始めます。昼の終わりに陽気な顔で。サマージャケットに身を包み、季節外れのブーツを履いて。ギターの音が全てを弾く、すべてが高鳴る。笑いながら裏腹。明日のことは一旦忘れ、週末のことを考える。あなたをどこかに連れ出せたらなら。もう一度、あと何度でも見たくなる、顔。もう一度、あの時の声を聞けたなら、何度でも戻れる。大きすぎる奇跡はいらない、眩しいから目を細めてみる

そして

忘れたくないことが増えていく。どうでもいいことばかり。些細ないさかいなんて忘れてしまい160時間をぶっ飛ばし、あなたと過ごすこのひと時。向こう側で笑うあなた。太陽さえも意味を変え、雨音ですらありがたい。風の匂い、息の匂い。もう思い出さないで、その方が幸せになれる。水面を揺らすのはもう終わり、これが最後であってほしい。穏やかなまどろみの中で、甘い熱を感じていたい。薄く削れた希望を再構成。確かな形に変えていく。そんな未来を願ってもいいでしょう、願うくらいならいくらでも。本当に目が覚めた時、こうしていたことも忘れてしまう。ただこの空間に漂う、この日の私の思いは電気の光として残り続ける、透明な灰の中で。