夏の扉をきっかけに

謎を解くには

宇宙のことを考える。いつも退屈だから。辛いことが多いから、遥か遠くのことを考えることで気がまぎれる。変化していく。大いなるユニヴァース。時間は膨大で、どこまでも遠くて、ループしているのだろうか、パラレルワールドなんだろうか。その謎が解ける日なんて永遠にこないかもしれない。天体は続くのか、本当のことを言えば地球が丸いということさえ真実かどうかわからない。聞いた情報を鵜呑みにして信じきっているだけ。教育という洗脳でそれが当たり前だと思っているだけ。それでもそれを前提として生きていかなければ始まらない。

不思議な日常の中で求め続けている、今日も。

それでも町は廻っている」というマンガがある。とても面白い。なんというか日常のギャグ漫画なのに宇宙とか哲学の匂いを感じる。明確に示されたわけではないが、爽やかで日常というどこにでもある身近な宇宙を感じる。「プラネテス」というSFマンガで、「ここも(立っている大地も)宇宙だ」というシーンがあった、とても印象的。生きているだけでそこは宇宙になる。日常はそれを忘れさせる。忘れてはいけないことを忘れさせる。でも気にしてばかりいたら生活できない。それも面倒だ。

一体なんなんだろう、この世は。不思議なことばかり起こる。当たり前のことばかり起こる。意味を見出すのは、自分の価値観次第。自分を生かすも殺すも自分次第。人生のテーマは、自分で与えるしかない。

神殺しのジレンマ

例えば、封建的なことを価値観としていた時代であれば、割と盲目的に生きていけたのではないだろうか。君主に仕えることで、それが自分の人生と割り切ってしまえる。ストレスはもちろんあっただろうが、現代人のように心を病むことは少なかったのではないか。現代は変に自由がありすぎて、自分の軸がぶれてしまうのではないか。大昔からそれを支える方法は宗教であっただろう。神を心の軸にすることで困難や災難を乗り越えてこれたのではないか。しかし現代は神を科学に置き換えてしまい、どこかで割り切ってしまっているのか。未知や超常現象という割り切れない割り算を、科学で分断してしまい無理やり割り切っているんだろうか。不思議なことを神様や妖怪のせいにできていたから、それが自然であった。これは養老孟司さんの「バカの壁」でもこのようなことを言っていた。

不自然に気づいてしまったことで、矛盾を知りストレスが溜まってしまう。脳を量子レベルで分解しても、そこに命が無いように。不思議をどんなに解剖しても真実や神はそこにいない。無機質な数値に置き換えても概念を理解することなんてできない。なぜなら数値も文字であり、人が作ったものだから。人を超えた概念を理解するのに、人の言葉という概念では理解できない。感覚的には理解できても腹には落ちない。

だから人は何かに代用したくなる。すがりつきたくなる。偶像崇拝。命そのものを見つめることは辛いけれど、見つめることを忘れてはいけない。厄介な存在。

松田聖子さんの「夏の扉」という曲がある。いつもこのイントロを聴くと心の何かがはじけるような気持ちになる。調べてみると、財津和夫さんが作曲らしい。(「青春の影」や「心の旅」が好きです。)実にキャッチーで命の衝動というか、鮮やかさのような気持ちになる。何か大切なことを思い出したいきっかけを掴む時、私はこの曲を聴いている。