映画 キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン ☆☆☆☆

ディカプリオ作品にハズレなし

なんというおもしろさ。若きディカプリオのかっこよさ。ディカプリオの作品はこの頃からなんというか、脚本にこだわったものをチョイスしている感じがする。レヴェナントやギャングオブニューヨークも、シャッターアイランドも、インセプションも。みんな話がしっかりしている。どちらかというと男性的な作品が多い。硬派というか渋いというか。男性が好きそうな内容だ。
父との友情を描いた反面、母親への失望が根本にある気がする。
トムハンクスが相変わらずコミカル。
二転三転のおもしろさ。最近こんな感じで気軽に見れておもしろい映画は少ない。ハングオーバーとかはコメディすぎるんだよな。
これが実話ベースというのがまたすごい。
空港で逃げるシーンにて「嘘の中で生きる方が楽だ」このセリフがめちゃくちゃ刺さった。本当にそう思う。どんなに金を得ても、虚栄にまみれた人生では、誰も自分について来る人がいない寂しさ。

嘘の中で生きたい

できることなら人は空想の世界に行きたいのだろう。想像こそが、創造に繋がる。人はいつも理想を描き、現実にしようとする。それがすべてとも言える。誰だって憧れの人の模倣をする。そうやって自分を作り上げていく。

泣きそうになる気持ち。すごくわかる部分。共感できる部分。人は思い通りにならない人生の逆境に当たることはある。それを乗り越えるために嘘をつくのだろう。自分で認めたくはない。認めてしまうことで、守ってきた何かを無くしてしまう。たとえ間違った選択だとしても。そうなることが、そんな人を否定はしたくない。私だってどこかで自分を偽っているところがある。
間違った選択をした人を非難したくはない。罪を犯すことは許されないけれど。その葛藤の中に困難の先に人間とは何かが宿っているような気がする。
人間とは何かということを考えた時、火を扱う、言葉を使う、文明を営むあたりがあげられるだろうか。
しかし、それ以上に人間を人間たらしめるものに、自ら変化を与えられるということがあるのではないか。望めば、好きなところへ行き、自分の生き方を変化させられる。本能に導かれた本来の生存方法、それ以外の道を選べるのは人間しかできないのではないだろうか。動物が進化するには何年もかけて、何世代にもかけて徐々に変えていく。(例外もあるが)しかし、人間はまるで違う方向に自分を変化させることができる。だから空想があるのだろうか。いつだって憧れのヒーローやヒロインを思い浮かべている。子どもの頃からずっとそう。人間はモノマネをする生き物。自分がこうなりたいと思うメンターを見つける。そして真似る。フィクションや物語が人類史の初めからずっと存在するのもそうなんだろう。人は一人で生きられない、そして目指す憧れがなければ、また生きれない。生きれないというよりは、ただ生存だけなら衣食住あればそれでもいいのだろうが、文明や社会を築くためには、憧れの対象がないとどうしたらいいかがわからない。卵が先か鶏が先かみたいな話になるが、憧れられた人もまた、憧れた人がいるのだろう。そうすると憧れた人の憧れた人をたどっていくと最終的にどこか一人にたどり着くのだろうか。それを神と言うのだろうか。あながち間違ってない、神の定義は人それぞれだが、全知全能で万能な存在。まさにイデアそのもの。人々の望む美と力の根源。全ての理想=イデア。だったかプラトン曰く。

私は現実で生きれるんだろうか

ディカプリオ様は最後立ち直ったけども、私は現実を受け入れていけるのだろうか。いつも本当に人一倍困難が多い気がする。それに拍車をかけてマイナス思考だからタチが悪い。こけた人が悪いのでなく、立たなかった人が悪いみたいな名言がある。ほんとそう、どんなことも立ち上がることが本当に辛い。私はこけてばっかり。だから立つ回数も多いから疲れてしまう。ずって寝ていたい。
そもそも現実で生きるということはどうゆうことなんだろうか。現実なんて、社会なんて、国家や文明なんて、あってないようなもの。養老先生の脳化する社会というか、すべてのコミュニティは人の頭が作り出したもの。想像の世界の共有が現実ならば、現実も想像も境界線は実は曖昧。それでも線引きをする必要があるから、そこにストレスがかかりしわ寄せが、歪みがどこかに生まれる。パワハラやセクハラがどんなに蓋をしてもなくならないように、人間の本質を無理に閉じ込めても、どこか違う場所から吹き出す。だから少しづつ息抜きが必要なんだろう。ストレスも溜め込まないように、逃げ場所が必要なんだろう。