やりきれない夜に

もっと失敗すればいいし、成果なんて出さなければいい。生き急いで苦しいなら、いっそ手を離してしまえばいい。それでも手元に残ったものだけが、本当に必要なもの。
誰にも必要とされていないなら、それで構わない。私もあなたを必要としていない。大人同士の人間関係はとても長い会話のようなもの。「夫婦生活は、長い会話である。」とニーチェは言ったけれど、夫婦に限った話ではないと思います。人間同士なんてわかりあえないことの方が大半です。言葉ではうまく理解できない。So what。
プレッシャーや責任に押しつぶされそうになるけれど、そんなものクソくらえ。柔軟になんかなりたくない。器用になんかなりたくない。うまく馴染んだり溶け込んだりしたくない。異質でありたい、異端でありたい。
上っ面だけ要領よく、うまく取り繕う奴を鼻で笑え。そんなものに意味はない、価値はない。

遠回りでいい、評価されなくていい。役に立たなくていい。苦しまなくていい。なぜならあなたは、「あなたの持つ価値観の中でしか自由になれない。」だったら、周りにどんなに抑圧されようが、あなたの心だけは誰よりも自由でいてください。

そうすることが自由になるためのたった一つの方法。やりたいことをやりなさい。心がときめく方へ進みなさい。迷った時はあえて危険な方を選ぶと、岡本太郎は言っていた。失敗して後悔しなさい。それこそが生きた証。傷こそがあなたの個性。苦しい時に立ち直れる人こそが魅力的な人。

波のように押し寄せる生きる試練。凪のような時を大切に。穏やかな海を見つめて。

 

 

 

 

 

 

 

ダウンタウンの凄さはどこから来るのだろうか

カリスマ性と浜田雅功

成功者になるには、どのような才能が必要なんだろうか。私が理想とし、いつ見てもすごいと思う成功者として、ダウンタウン浜田雅功さんがいます。芸人としてのデビュー以来、常にTVバラエティ界のトップを走り続け、90年代には歌手としても一世を風靡。まさに平成のテレビ界を象徴する芸人さんと言えます。もちろん相方の松本さんもすごい芸人さんですが、どちらかというと松本さんは天才肌なセンスの持ち主なので、孤高の芸術家のような雰囲気を感じます。
今回は単にお笑い芸人としてのセンスだけでなく、圧倒的な人としての凄味を感じる浜田さんの話をします。

 

まず、凄味を感じる理由として、胆力とコミュニケーション能力があると思います。どんな大御所相手にも遠慮なく頭をしばき、むしろ叩かれたいと公言するアイドルやアーティストもたくさんいました。HEY!HEY!HEY!の司会をしていた頃はまだ30代だったと思うのですが、年上の大御所にも物怖じせずバシバシ突っ込んでました。
若い頃はほとんどチンピラのような芸風で、批判的な意見もあったと思います。漫才というよりチンピラの立ち話と揶揄されたりもしていました。しかし、それを圧倒する人気の勢いが余計な批判をかき消すような、台風のような勢いを感じました。最近は自分が大御所となったため、丸くなり貫禄も感じます。
運も才能も持ち合わせデビューから今までずっと売れている。ダウンタウンはなぜこんなにもすごいコンビになったのでしょうか。デビューからという点に一つの鍵があるような気がします。最初から売れっ子というには、つまりその時点でなんかしらの相当な魅力があったのでしょう。しかし、芸人としての技術はその時点では経験がないはずなので、芸人以外の人間的実力のようなものが備わっていたのではないでしょうか。そこが時代の勢いと若さの勢いと相まって一気に加速した。その加速の中で芸人としての経験も備わっていった。

 

根本にあるもの

では、人間的実力とは何か。おそらく知る人ぞ知る、学生時代の過酷な経験が人間的な実力を磨いたのではないでしょうか。刑務所のように規律の厳しい寮生活で、副寮長くらいにまで上り詰めたという逸話があります。
脱走者が現れるような、環境の中で集団生活の中で必要な人間的実力を磨いたのではないでしょうか。特に浜田さんの優れている要素として胆力・根性・交渉力があるかと思います。
特に私がすごいと思ったのが何かのクイズ番組の特番で、まだ若手のダウンタウンが出たエピソードです。たくさんの番組の出演者の集まる中で、それぞれの机の上を土足で走り回る場面がありました。今のテレビでそんなことをやる若手芸人なんていないですね。それなのに干されたりせず、ベテランや大御所にも可愛がられるというのは、人間味の根本が気に入られるのでしょう。

楽屋などでは、とても礼儀正しいという話も聞きます。日本人が人付き合いをする上で「礼儀」というものは、今も昔もとても大事なものですよね。日本の文化の根本にあり、仏教や儒教が生んだ敬意表現。最近は西洋文化の影響も大きいですが、それでも日本人の人付き合いの根本には礼儀の大切さが染みついているような気がします。礼儀とは何かと考えてみると。相手に敬意を払い、相手を立てる。というようなことが自然とできることではないでしょうか。自然にできることで、本当に相手に敬意を持っていることが伝わりますからね。不自然で過剰になると慇懃無礼と思われてしまいます。抜くとこは抜き、締めるところは締める。これが自然にできるというのは、経験や積み重ねの数が物を言うと思います。おそらく過酷な寮生活の集団の中で、体に身についたのではないでしょうか。それが大御所にも愛され、後輩には憧れを抱かれる浜田さんの強みになっているのかと思います。

余談ですが、浜田さんも松本さんも手相に覇王線というものがあるらしいです。これは本当でしょうか。成功者などが持つという覇王線をコンビの二人が持っていたらすごいことですね。まさに伝説のコンビです。

 

存在し続けることの難しさ

不条理は急に音もなく

働くのは本当に大変です。大人の世界は特に色々なしがらみや、損得があり、目に見えない様々な要因が物事を運びます。そこの本質にあるのはパワーバランス。縦割り社会の世の中で、理不尽ないざこざに耐え続けて得られるわずかな安らぎ。世の常とは戦いの歴史。自分の命をどこに賭けるか。誰に預けるか。信じていてもある日急にお払い箱。そんなこともよくあります。
だからこそバックアッププランを持つことが大事です。リスクヘッジですね。情熱を傾けることは大切ですが、全てを預けることは危険でもあります。どこにでもある二面性。
天職なんて本当にあるのでしょうか。都市伝説ですね。自分がやりたいことなんてない。どんなにがんばっても経済活動に全てを捧げる気にはなれません。では情熱はどこに行ったのでしょうか。自由になりたいけれど、ぬるま湯のような絶望の中で飼い殺される。なんの保証もないけれど、時は流れる。
こんな日は悪いことばかり考えてしまいます。楽観的に生きる秘訣はあるのでしょうか。ヒントは哲学かと思います。全ての苦しみや恐怖や悲しみに起こる意味はない。ただ起こるべくして起こるだけ。バカバカしいこともあるけれど、それもまた道理。情熱とか盲信はどこか宗教じみています。封建的に身を捧げるのは、かつての戦争のように日本人の気質に合うのでしょう。でも自分も勤勉なふりをしないと裏切られたり、見えないところで悪いことが起きています。

不運は転がる石のように

自分から何か良いことに働きかけない限り、世の中は急に良いことなんて起こらない。むしろ悪いことばかり起こる。つまり、時の流れは死に向かっています。そこで唯一自由に働きかけることができるなら、生を営むことではないでしょうか。苦しみの連鎖を断ち切り、何かを解決する。その繰り返しを少しずつ続けて世の中を良くしていく。壊すのは簡単だけど、積み上げるのは途方も無い努力と時間がかかる。誰かが花を手入れしているから、道端の小さな花壇にも綺麗な花が咲く。

子育ても似ているかもしれません。子どもを立派な大人に育てるには、地道な努力と教育が必要ですね。
子どもは自然そのものなので、ほっておくと悪い方向へ導かれてしまいます。常に目をかける。
「赤ちゃんは肌を離すな、子どもは手を離すな、青年は目を離すな、大人になったら心を離すな」みたいな誰かの名言みたいのがあった気がします。まさに子育ての本質ですね。
次の世代に何を残せるか、自分が何を育てるか、未来に残す何か。それこそ生きる意味かもしれません。この世に生まれた以上、良いことで名を残したいですね。

縁というのは不思議なものです。自分が誰のために生きるのか、誰のためまでなら生きれるのか。命を差出せる勇敢さは、災害のレスキューの人たちを見習わないければいけませんね。いつだって生死の狭間で生きていることを忘れてはいけません。タイムリミットはあまりない。人生は驚くほど短いのかもしれない。いつだって後悔のないように生きたいものです。

人を動かすことの難しさ

大人はみんな偉そうです。自分の小さなプライドの城の中で、自分は悪くないと泣き叫ぶ雛鳥のようです。そこから出ているときは、きっとペコペコしているのだろうに。安全な柵の中からは、権利ばかりを主張します。しかも、劣っている人間を見つけるとコレデモカとこき下ろします。

たまに陰湿で足の引っ張り合いの日本社会に嫌気がさしますね。キーキーなる自転車の方が良いみたいな英語の諺があります。その方が油をさしてもらえるから。という意味です。出る杭を打つ日本とは真逆の考えですね。足並み揃えて和を乱さないのが日本人の美徳なので、突飛した人にはコレデモカと石を投げる。マスメディアもこんな感じの時ありますね。一億総イジメ社会。陰湿で息苦しくてしょうがない時があります。でも自分もそこの一部であり、そう感じるということは自分こそが、その性質を持っているのでしょう。自分がそうだから認識できる。愚痴を言うなら、逃げるか改善せよ。なぜなら大人の世界では誰も助けてくれないから。学生であれば学校や親に頼れるのでしょう。

それぐらい社会は厳しいものです。自分で気づいて自分で直すしかない。できなければ明日はない。それこそが人生の厳しさ。どんな世界も同じですね。プロというのは努力を続けることでしか、結果を出せない。運良く楽に何かがうまくいくはずがない。そんな時頼れるのは、どんな時も目の前の小さな一歩から。さて立ち上がりましょう。「人生は素晴らしい、戦う価値がある。」シェイクスピアかなんかの言葉だったかと思います。

 

気まぐれなスピード

情報の見極め

サーチュイン遺伝子」とは長生き遺伝子とも呼ばれる遺伝子。老化を阻止することなんてできるのだろうか。おそらく完全に阻止するのでなく、遅らせることならできるのだろう。
この遺伝子を完全に操れたら永遠の若さを手に入れれるのだろうか。完全にコントロールできないにしろ、活性化させるには飢餓状態やカロリー制限が有効らしい。どこまで本当かはわからないが、「サーチュイン遺伝子」で検索すると多くの似たような内容が出てくる。
また、「レスベラトロール」というポリフェノールの一種を摂取することも有効らしい。
だから赤ワインをよく飲むフランス人は長寿であるのだとか。脂質など肉を食べるのに起こるこの矛盾をフレンチパラドックスともいうらしい。
しかし、溢れる情報に騙されてはいけない。ワインばかり飲んで健康になれるかという話もそれはないだろと言える。情報の取捨選択。この辺りの線引きが非常に難しい。
しかしなんとなくではあるが、確かにこの話はうなずける部分がある。空腹の時の方が、神経が高ぶってフットワークが軽い気がするし、肌ツヤも良い気がする。満腹感のある食事を三食続けていると、顔のむくみなど気になる時がある。最近1日1食生活の人もよくいるらしい。これが習慣的になると、寿命が伸びるのだろうか。
現代は飽食の時代だから、栄養失調になるよりも食べ過ぎから起こる疾患の方が死の要因になるという話もある。確かに最近餓死するなんて話はほとんど聞かない。

維持すること。変化させないこと。

しかし難しいのは、一時的なダイエットや美容効果、健康効果よりも、長期的にそれを維持できるかという点である。一時的に効果があっても元の不摂生に戻ったら、すぐリバウンドなりしてしまう。下手したら一生維持し続けることで初めて効果が実証できると言える。酒飲みタバコ吸いの人が案外、無病で長生きすることもある。健康的な生活をしていても病気にかかる人もいる。ストレスをためないことが幸せというならば前者の方が良い人生とも言える。たまにテレビとかで高齢の100歳近い人がタバコをめちゃくちゃ吸ってて、病気知らず見たいな人が出てたりする。驚く。
何を食べても、飲んでも喫煙も全て受け入れて次の日はけろっとしていた若い頃。20代前半は本当に無茶苦茶しました。アルコールと喫煙とジャンクフード、睡眠不足と怠惰な生活。それでも次の日はけろっとしていた。若さとは無敵ですね。今は某チェーンうどん屋さんのかき揚げを食べるだけで、半日は胃もたれが続きます。若さとは代謝なんでしょうね。代謝とは体内の色々なものが巡ることなんでしょうか。そのスピードが今は本当に鈍くなったと感じます。それがあと30年したらどうなるんでしょうか。そう考えると、鬼太郎で知られる水木しげる先生が100歳近くでハンバーガー食べていた写真を見ると驚きますね。まさに妖怪のような生命力。
変化させないこと、維持させることはとても難しいですね。健康的な生活を踏み外さないように、しかもストレスをためないように。スプーンに生卵のせて競いながら綱渡りしてるような気分です。

そのスピードで目指す

血も宇宙も巡ることで成り立っています。ミクロとマクロ。身体中の細胞の中、血管の中をあらゆる物質が巡っています。宇宙も天体も目に見えないエネルギーや物質が巡っています。the brilliant greenの「そのスピードで」が聴きたくなった。速いことが良いのだろうか、ゆっくりと落ち着いたスピードが良いのだろうか。現代の仕事は何よりもスピードが重視される。そのことにたまに疲れてしまう。立ち止まる暇もなく変化していく環境。マイペースで過ごせる日は来るのでしょうか。

箱庭の中では、誰が風を吹かせて誰が喜ぶ

文章を書くということ。日常的で当たり前の行為なんですが、なんだかとても不思議なことのような気がします。若い頃は大嫌いでした。それこそ読書感想文など嫌で、自分の考えを発表することに意味も感じなかったし、とても憂鬱でした。しかし大人になって読書が日常的になってから、言葉そのものがとても好きになりました。

人間にとって最も基本的なコミュニケーションツールであり、道具である言葉は人類の発明したものの中でとても重要なものです。言葉でしか想いは伝わらないけれど、言葉だけでは本当の想いは伝えきれない。なんだか矛盾している不完全な道具のような気もします。

人類を変えたもの

発明といえば、私が思う人類史を変えるほどの発明は次のものではないかと思います。

まずは「言葉」。というか言語など全般ですね。これにより世界規模で人類は互いを人として認識できるようになったのではないかと思います。

次に「通貨」。これは信用とも言えます。お金が生まれ、お互いにお金の価値を信用し合うことで、色々な約束事ができる。約束ができることであらゆる物事が進む。変化する。まさに錬金術と言えます。お金に価値を与え、変化を生む。つまりお金とは変化のことです。もう一つ変化そのものと言えば時間があげられます。まさに時は金なり。この営みにより資本主義や市場原理主義など経済が発展したと言えます。

最後に、「インターネット」。まだ半世紀も歴史がないこの技術ですが、今後数十年、下手したら数年レベルで全世界レベルの人類に無くてはならないものになるでしょう。すでにSNSに依存している若者にとっては生活必需品と言えるかもしれません。我々は人類の情報革命の発生点そのものに立ち会っているのかもしれません。インターネットはあらゆるものに組み込まれ、今後ますます発展して行くでしょう。最近よく聞くIoTと呼ばれる考え方そのものですね。

loTやクラウド化などにより、あらゆるものが実態を持たずネットワークで繋がる。そこに最近こちらもよく耳にするAI技術が組み合わさったらどんな未来が来るのでしょう。今ではまだまだ情報処理能力は人間の脳には叶わないかもしれませんが、AIそのものは将棋やチェスの世界では人間を上回っているとも言います。今は限定的なことしか特化していないAIたちも、より複合的に高度に日常に浸透して行くでしょう。

まさにSFの世界ですね。映画ターミネーターの中で出て来るスカイネットを連想します。技術的特異点=シンギュラリティという言葉そのものです。人工知能が人類を上回る時。わくわくする気持ちと、なんだか不安な気持ちを持つ人がほとんどでしょう。

今流行りの未来

最近よく聞くのが、AIが仕事を奪うなどの話がありますね。単純作業などは既に工場などでロボット化しているのが当たり前ですが、AIがさらに思考するようになればオフィスで事務処理などを代行するのではないでしょうか。車の運転も自動運転が発達すればタクシーやバスなどの職業運転手がなくなるかもしれません。家事などもやってくれるかもしれません。私は労働意欲が低い人間なので、家事も仕事もしてほしいとちょっと思ってます。そうして自分はネットしたり遊んだりしていたいのですが、さすがに堕落しそうですね。でもそんな未来が来るかもしれません。日本人は勤勉なので働いてそうですが。それでも間違いなく生活や職場にAI技術が介入する日は来るでしょう。

最終的にはどんな感じになるんでしょうね。最終的に労働なんてナンセンスみたいな感じになるのでしょうか。あらゆることは一部の管理者が決め、実務はAIが行ない、ほとんどの民衆はその恩恵の中で平和に暮らす。ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」の世界みたいですね。あと「1984年」とか。独裁者の作った箱庭の中で、そこが理想郷と信じてぬくぬくと生きる。ディストピアを描いたSF映画の世界そのものですね。「アイランド」という映画がこのような話でした。とてもおもしろい映画なので、SF好きな方は是非見てください。

蝶の羽ばたきが嵐を起こす

しかしどんなに考えても結論は出ません。予測不可能性についていうならば、まさにカオス理論というやつですね。どんなに環境を揃えても、現実には全く同じ条件での観測はできないから、毎回結果は変わるということですね。初期値鋭敏性というやつです。子どもの頃全く同じ場所からビー玉を転がしても、毎回違う場所にたどり着くことがとても不思議でした。完全に密室状態の風もない室内で、力を与えず、手を離しただけのビー玉が、なぜ何回やっても行く先に違いが出るのか。不思議でしょうがなかったです。今考えると回転によって軌道がずれるとか、力は与えてなくても微妙な位置エネルギーの誤差とか、斜面の見えないレベルの凹凸とかが原因だろうとわかるのですが、子どもの頃からこんなことを考えるのが好きだったのですね私は。当たり前のことがこんなにも不思議なのはなんででしょうか。当たり前のことなんて実はないからでしょうか。全ての事象は起こるべくして起こる必然なのかもしれませんが、どんな些細なことも起こること自体が不思議でしょうがない。不思議じゃないことなんて何一つない。世界はそんな風にできているんでしょう。

幻想水滸伝を今こそ

20年の時を超えて

幻想水滸伝というゲームがある。1995年に初代プレイステーションで発売された、コナミRPGだ。人気も高くその後シリーズ化も多くされた名作RPGだ。今回私はPS VITAでできる1、2のセットになったものを購入した。
2017年になった現在、改めてイチからやっていこうと思う。果たして22年の時を超えてもおもしろいのだろうか。

レトロゲームをやろうと思ったきっかけ

最近のスマホゲームがどうもしっくりこない。なんというかガチャとか課金とか時間で回復とかが馴染めない。しかもRPG的なものもダンジョンの探索はあまりなく、アイテム収集とかがメインであったり、敵との戦闘が永遠と続くイメージであるからだ。
そして、基本がオンラインなので自分のペースでじっくりやることができない気がする。手軽にサクサクと仲間と交流、みたいなスタンスがメインである気がする。おそらく今の中高生にとっては、それがおもしろいのだろう。しかし、身近に一緒に冒険してくれる仲間がいない会社員にとっては、孤独感が増すばかりだ。電車でサクサクできるというのも、正直画面にゲームが写っただけで恥ずかしい。いい歳してスマホゲームに夢中な大人はみっともないと感じてしまう。
正直言って、最近のなんでも手軽に済ます世の中の雰囲気は時々うんざりする。確かに現代においてあらゆる情報スピードが増えている中で、娯楽も手軽に終わらせることもありがたいかもしれない。YouTuber動画も短くて簡単に編集されたものがメインだし、スマホゲームはとにかく1プレイがすぐに終わるものが多い。ネットを見れば概要だけがわかるまとめサイトが乱立していて、何か一つのものにじっくり取り組まなくても楽しめるようになっている。

テレビ番組も最初にその回の内容をサクッと紹介している番組がほとんどだ。あれは本当にやめてほしい。一番面白い部分を冒頭に見せるのはなんのためにあるのだろうか。おそらく、すぐにチャンネルを変えられる時代に、番組に興味を持ってもらうためにやっている部分もあるのだろう。またオンタイムでなく録画したものを見る方が多い時代であるから、その回の中身がさっくりわかるような仕掛けなのだろう。だが私からすると本当にあれはだめだ。なぜならテレビなどのコンテンツの面白さの本質はライブ感だと思っている。何が起こるかわからない未知の部分にワクワクすると思っている。かつて電波少年などの番組が面白かったのは、とんでもないハプニングが起こるからであった。しかし最近の番組には一切それがない。コンプライアンスの関係もあるだろうが予定調和の塊でしかない。テレビの愚痴については今度じっくり記事にしよう。話が脱線してしまった。
つまりゲームにしろなんでも手軽にできる時代。それで本当にいいのだろうか。楽しい娯楽を手短に終わらせたら、それは楽しさを満喫したことになるのだろうか。楽しいからこそじっくり楽しみたいのではないだろうか。
だからこそのPS世代のレトロゲーム。きっと今の若い子たちも今のスマホゲームがレトロゲームと懐かしく感じる日が来るのだろう。プレイステーションも当時は次世代機だったのだが今見るとレトロ感がすごい。ポリゴンの荒さがなんとも言えない。スーファミのドットは美しいが、PSのポリゴンの荒さは汚いという記事を最近見た気がする。

壮大な世界観

幻想水滸伝の概要として、世界観はアジアのような雰囲気。将軍やら帝国などの歴史戦記ものという感じだろうか。
赤月帝国という国で、将軍の息子が主人公。戦争イベントや108星という仲間を集めるシステムが特徴らしいです。というのも初見プレイなので、あまりよくわからないまま始めます。
108星は全員が味方ではないという情報もあり、そのあたりがよくわからないがポケモンのようなものだろうか。仲間を集めるシステムはこの当時流行っていたような気がする。しかし初代ポケモンは1996年発売だから、こちらの方が先に出たようですね。攻略時間は大体1が30時間前後で、2も同じくらいのようです。なんとか1日1時間くらい進めて年内に1だけでもクリアしたいと思っています。そして、同時進行でこのブログ環境も徐々にカスタマイズしていきたいと思っています。とりあえず年内の目標はそのような感じです。まあ何事もコツコツと進めていけたらと思っています。

ぼんやりすることが大切らしい

ビーバップハイヒールという番組で、ニューロビクスという言葉を知った。

アイディアを生むには焦ったりして脳を疲れさすのでなく、ぼんやりすることがいいらしい。脳を酷使し続けることは鬱や認知症になるリスクがあるらしい。なんとなくわかる、一日中頭脳労働していると、本当に集中したい時に身が入らないことがあったりする。

以下のようなことをするとぼんやりしやすいとか。

 

単純作業をする(豆を剥くなど)

アルバムなどを見て過去を振り返る

高いところに登る、見晴らしのいいところに行く

駆け引きのあるゲームなどする。オセロとか。

地図に頼らず道に迷ってみる。