永遠に近い「時の最果て」には何があるのだろう

時間とは変化

何かが存在するということは、時間こそが証明してくれるのではないか。
何かの存在を確かめるには、観測することができるからである。観測とは観測者がいて成り立つ。観測者が何かを感じとるには五感が必要になる。五感で確かめるということは、見たり聞いたり触れたりすることである。今見ているものを感じる、過去見たものは記憶として脳に残る。つまり今起きていることを観測するにはリアルタイム性が必要になる。そうなると過去のできごとは存在しなかったのだろうか。そんなことはない、歴史も思い出も何らかの形で今も存在するから。それを忘れてしまったとしても、他の人が覚えていたり環境が教えてくれる。時間とは変化である。では変化することは失うことなのか。
そんなことはない、感じ取ったぬくもりは確かに次の何かに繋がっているから。
ご飯を食べたという事実があるから、満腹になり元気に動ける。行動するエネルギーに変わる。好きな人がいたから、幸せな思い出があるからまた人を好きになれる。嫌いな人がいたから同じような人を避けれる。何かに記していなくても確かに思い出は存在する。

意志を永遠に残すことはできるのか

今から137億年前に宇宙は生まれたらしい、今から何年宇宙はつづくのだろう。地球誕生は約45億年前。
アウストラロピテクスは400万年前に生まれたらしい。まだまだ猿人くらいだろう。
2017.06.10(土)のニュースで人類ホモ・サピエンスの30万年前の化石が北アフリカのモロッコで見つかったという。これまでの定説より10万年も前らしい。10万年の差というのはすごい。西暦でさえ2000年ちょっとなのに10万って。10万年後に今の人類の化石が見つかったらどうなるんだろう。というか現代の場合は火葬されるから化石もくそもないが。なんらかの形で現代の文明は発見されるのだろうか。物としての情報はそれこそ化石のような残りやすいものはでてくるかもしれない。データは残るだろうか。PC自体は消え去るだろうが、例えばクラウド上にあるデータは高度に分散されたインターネット上に残り。PCやサーバーがすべてなくなっても、バックアップ用の電波とか粒子とか波長に変換され宇宙の海を漂っているのかもしれない。現代人が生きていたという証が電波として、誰かに受信されるかもしれない。そうなると私のこの雑記も10万年後の誰かが読んでいるのだろうか。ただ、現代語を読めるかは不明だが。数百年前の古文や漢文を読むのに苦戦するレベルの私には10万年後の言語体系なんて想像もつかない。
言語という保存方法自体が未来人にとってはナンセンスなのかもしれない。もっと一瞬で伝えたい概念が伝わる通信や記憶媒体があるのだろう。エスパーとかニュータイプとかのレベルの世界になる。いつか脳波とかで会話をする日が来るのだろうか。言葉がなくなったら、どのような影響が出るのだろうか。想像もつかない。