「積みゲー」と失われた何かを求めて

TVゲームが好きだ

この感情に嘘はない。なぜなら私はTVゲーム黄金時代とも言える80年代から00年代の間に少年期を過ごしてきたからである。この80年代生まれの子どもがマリオやドラクエ、FFを避けて通ることはできるのだろうか。無理だろう。多感な時期にいかにも面白そうなパッケージや軽快なBGM、そして何よりも様々な表現を魅せるゲーム性。ワクワクする要素しかない。日常がディズニーランドにいるような感覚だ。ゲームに限った話ではないが身の回りには商業主義が溢れかえっている。どこを見てもエンターテイメントがあらゆる感覚を刺激してくる。退屈することは罪とはいわんばかりに、退屈させないようにあの手この手で煽ってくる。射幸性というのだろうか。
子どもにとってはより刺激が強い。子どもはCMなどのあらゆるメディアを鵜呑みする可能性があるからだ。私もその一人の少年だっただろう。新しいゲームがでる度に親にねだっていた記憶がある。当時の90年代スーパーファミコンソフトは8,000円〜10,000円位が定価だったように思う。今の感覚でいうとかなり高く感じる。両親に感謝。

人はなぜゲームを「積む」のか

積みゲーという言葉がある。ゲームは買うのに、やらずに積んでいってしまう状態のことだ。私もその一人だ。ゲームは大好きなのに、買ってはやらないの繰り返し。いつの日からかそうなってしまった。たぶん仕事に追われ時間がもったいないと思うようになったことと、感性が既に大人になってしまったことが原因だろう。
ゲームは時間がかかる。それこそRPGとかを本気でやろうとしたら50時間位はかかる。下手したら100時間くらいはかかるのではないか。1つのゲームにこんなにも時間をとられて、しかもおもしろくなかったら後悔しかない。ビジネス書を1冊でも読んだほうが有益と感じてしまう。ビジネス書なら概要だけなら1時間くらいで読めてしまうし、仕事や生活に役立つからおもしろい。サラリーマンの自由時間は少ない。平日はほぼ仕事と家事で終わってしまう。土日もなんだかんだしていると遊んでいる暇はない。週に自由に遊べる時間は20時間くらいとする。そうすると1本のゲームをやるのにどれほどかかるのか。その結果有益な何かを得られるのか、という気持ちを持ったらすでにやることはできない。
もっと楽しいこともあることを知ってしまったから。恋愛であったりスポーツであったり、子どもの頃にはできないようなお金の使い方ができることもある。数千円あったら、寿司でも食べに行きたい。
感性的にももはやおもしろと感じれなくなってしまっている。無骨な「信長の野望」とかの絵柄なら許せるが、アニメっぽい絵柄だと萎える。良い年こいて何してんだって気持ちになり、アニメっぽい絵柄に感情移入できなくなってきた。少年の頃の作品は許せてしまうから不思議である。ポケモン赤緑ドラクエ5・6のキャラクターは今も好きである。けれど最近のポケモンの絵柄を見てもあまり感情移入できそうにない。たぶん今ゲームに夢中な子どもたちも将来はそんな感覚を味わうのだろう。
そう考えるとファイナルファンタジーのアートワークで有名な天野喜孝さんの絵柄は、今見ても大人っぽいからすごい。当時も芸術性が高すぎて理解の範囲を越えていたイメージなのに、今見てもすごく大人っぽい。

それでもゲームをやりたい。

けれど時間はない。感性もない。
失われた時間と感性が欲しい。新しいドラクエ11のサブタイトルは「過ぎ去りし時を求めて」らしい。有名なフランス小説の「失われた時を求めて」をベースにしているのだろうが、ストーリーも何か関係あるのだろうか。ドラクエといえばサブタイトルのかっこよさも魅力。「天空の花嫁」や「導かれし者たち」が好きです。
今度じっくり社会人が効率よくゲームを楽しむ方法について考えてみたい。