奇跡は起こるのか

梅雨の憂鬱がまた暗い気持ちにさせる

某宗教団体の教祖が平成30年7月6日死刑執行された。平成の始まりに起きた戦後最悪の国内テロ。宗教というものの考え方がガラリと変わる事件。あれはなんだったんだろう。平成が30年過ぎてもまだわからない。何も腑に落ちない。納得できない。理解できない。怒り、憤り、憐れみ全ての負の感情を持ってしても何も消化できない、わからない。

つまり煮え切らない感情

これで一つのケリがついた、カタがついた。けじめをつけたという見方もあるかもしれないが、それは大衆というか、公に向けたお上のご都合でしかない。そんな印象。一個人としては何も消化できない。「自然界では生成できない、人口の不自然な物質を無理やり飲み込んで胃の中で消化できないまま、そこにあり続けている」というような不自然な感覚。

宗教とは、つまるところなんなのか。神の存在証明とは。人類様が2000年考えたくらいでは、相変わらずわからない。平成の始めに放送された「朝まで生テレビ」をYoutubeでみた。件の教祖と、現在もある某宗教団体の幹部も交えた討論。今見るとすごい番組だが、哲学者の池田晶子氏も自身初のテレビ出演とのことで、そもそも宗教とはなんなのか。その定義についてポツポツと語り始めた。さすが存在について思考し続けた哲学者。人々が新興宗教だとか、バブルとか浮かてれる時代に、当時から本質を捉え続けている。早逝したのが惜しいほど。

思えば平成の始まりは混乱からスタートし、もののけ姫では「生きろ」というシンプルで力強いメッセージがあった。その同時期公開のエヴァンゲリオン劇場版では「だからみんな死んでしまえばいいのに」というコピーが使われた。人の命の扱い方が昭和の頃とは何か違う感じになったような感覚があった。軽いというか空虚というか。実体のないスカスカで、けれども見栄えだけは良い器。

湾岸戦争ビデオゲーム戦争というほど、戦争がボタン一つ押して決着がつく。遠くの国の敵を消すのに、刃物や武器を持ってして血を見なくて良い時代。

物質主義、貨幣経済市場原理主義。封建的な価値観の崩壊。国に尽くす、お上に尽くす感覚は玉音放送で終わり。武力、軍事力でなく、なれない資本主義が、マーケットが世界を支配する時代に、遅れを取るなとばかりに我が国も欧米人の真似をして、マネーゲームに参加し、喉元まで溺れる。はじけるバブル。酔狂の時代。そこに現れるITという名の魔術。産業革命以降の人類にとって最大の革命時代を生きているのかもしれない。それこそがインターネットがもたらす情報革命。猿に武器をもたせたら、殴り合いの戦争が始まるが。人にITという魔術を与えた戦争の後には何も残らないかもしれない。それこそ核を中心とした第三次世界大戦後は木の棒と石で戦うみたいな逸話のような。

あの平成の初めに起きた出来事で、人類は何かを学んだのだろうか。テロはむしろ増えているような気がする。当時セカイ系というフィクションのジャンルが流行った。自分が世界の中心で、世界のあり方を変える力さえ持っている。そんな作品が多かった。しかし最近は「世界の片隅でー」や「陰日向にー」のような地味な日常的な作品が多い。そうゆう面で見たら地に足のついた、ひたむきな価値観もまだまだあるのだろうが。

暴走する加速と、緩める減速とどちらが強いかという話になる。そうなったとしても、そもそも大事なのはどこに向かうか、というハンドルさばきではないだろうか。

向かう先の決め方を知るのは子どもたち

目的なしに次の時代になんて行けない。それでも時代は変わる。節目を、ハレとケは人類になくてはならないもの。いわゆる通過儀礼を持ってして人は前に進める。不思議なもので、大人の方が簡単なことがわからない。単純なゴールやスタートを合図してもらわないとわからない。気持ちの切り替えができない。

子どもは難しいことはわからないが、簡単なことは子どもの方に教えられることもある。まさに子どもらは時代を映す鏡。大人が過ちを犯すと、子どもらに響く。私の今日のがんばりは、子どもらに届いているだろうか。自分の利益だけを中心に他者は蹴落とす。そんな風潮は誰にとっても良くないが、それが生きる厳しさと言って他者を封殺する風潮がこの国にはある。打算なく困った人に手を差し伸べる大人になれただろうか。

件の教祖は空中浮遊による奇跡を起こし、絞首刑を逃れるかと思ったが、どうやら奇跡は起きなかったようだ。人類に修行は足らないのかもしれない。皮肉。