映画 ゲット・アウト ☆☆☆

少しネタバレあり
夏休みなんで映画を朝から見ました。これは、、朝には向いてない、けれど夜中に見るには怖すぎるので夕方くらいに見るのをお勧めします。なぜ朝に向いてないかというと、若干グロ要素があるからです。そしてサスペンス&ホラーといった感じですね。霊的な怖さはありませんが、オカルト要素はあります。催眠術や洗脳、サイコパス、猟奇殺人という要素がありますね。

黒人ばかり失踪する映画なので、人種差別的な話が多少ありますが、失踪する謎を追う方がメインの内容なので重くなったり考えさせられる内容ではないです。どちらかというとパニックホラーに近い、イかれたサイコ集団とどう戦うかみたいな話です。


Get out=[取り出す・出て行く・逃げ出す]という意味ですが、誰が何から逃げ出し、取り出すかを考えれば、核心に迫ることができますね。
主人公クリスの親友のロッドウィリアムスがとても良い感じです。いかにもいいやつといった感じの、黒人の太っちょ保安官でダイハード1の黒人警官を思い出しますね。彼の活躍があってこその映画でもあります。
とにかくヒロイン?でもあり重要キャラの彼女がすごく演技もよく、怖さもあるのが良かったですね。いいやつなのか、敵なのかみたいなドキドキするシーンがあり、やっぱりそう来たか!という場面や、クライマックスのやりとりなど彼女の怪演がまた魅力でした。
途中のパーティーのシーンでビンゴをやっているところの意味がよくわからなかったのですが、主人公の写真を掲げてのビンゴに見せかけてオークションだったのですね。この辺り流し見していたので、あとでネットで調べて意味がわかりました。

あとグロいところも見れなかったです。手術のシーンがグロすぎて、あれはあかん。どうグロいかというと、映画のハンニバルっぽいといえば分かりやすいかもしれません。そんな脳みそが、、、みたいな。そういう系ダメな人にはオススメできませんが、グロさがメインのスプラッター映画ではないので、多少我慢できるなら良いかもしれません。

ストーリー自体は本当に良くて、ちゃんと序盤の人が連れ去られるシーンの意味なども後半わかったり、起承転結の組み立てがわかりやすいので飽きることなく見れます。あっという間に時間が過ぎてしまいました。
鹿がメタファー?のような使われ方をしていて、序盤で鹿を轢いてしまったり、鹿の剥製で戦ったり、いろんなシーンで出て来ますが、これも調べると虐げられた黒人を鹿を暗喩として表現しているんですね。
人生であと2回くらいは見たい映画でした。

こんなこと考える夜は早く寝た方が良い典型

あなたが今まさに眠ろうとしている時、私は起きていてコーヒーを片手にチョコチップクッキーを食べている。
そう、つまり人生とはそうゆうことだ。時間が存在していて、場所が空間が存在していて、それなのに私とあなたは別の存在である。

つまりはそうゆうことだ。おそらくそれが、そんなことがビッグバンか何か知らないが、存在が始まった頃から今この瞬間まで、退屈なほど普遍的な事実でありそしてどうしようもないくらいの真実だ。きっと明日どこかの公園の噴水の片隅に止まった鳩も、薄暗い路地裏にひっそりとある小さな会社のオフィスの事務員の引き出しも、太平洋に向いて回り続ける風車を支える歯車も、多分明日も存在している。


バカみたいに途方もない時間をかけてそれらが今そこに存在している。そこに存在していなかったものの理由が語られないように、そこにそれはある。

明日そこにそれらがあり続ける可能性が今はある。今あるのは可能性。起きるかもしれないこと、起きないかもしれないこと。瞬く間に、カタチ造られ消費され、オオスズメバチが巣穴を作るために砂粒を運び続けるように途方もない労力をかけて、今私はここに存在しチョコチップクッキーを食べ続ける。

 

チョコチップクッキーなるものは、咀嚼され、形と概念を咀嚼しきった頃に、私の血なり骨なり、栄養となり溶け交わり私の概念と重なり合う。

そしてそれが私の指を動かすエネルギーとなり、そのエネルギーでキーボードを打ち、光が電子が超高速で通信されどこか遠い、でも地が続くこの島国のどこかで、あなたの網膜に映し出され神経が脳が情報を伝達し、理解されまた困惑され、あなたのうっすらとした記憶とまどろみの中で一瞬の夢へ代わり。遠い遠い、いつかなんてことない風の心地よい空の下で、季節外れの薄着をした結果でたくしゃみがきっかけで、この文章を思い出すかもしれない。思い出さないかもしれない。思い出さないでほしい。


それはそんなことはなんともない、なんの意味もないのだろうか。何も生み出さない。ささやかなふれあい。ほとんどが無意味なこの世界で一番無意味なものを探し続けるために、今日もまた穏やかな音楽とともにチョコチップクッキーを食べ続ける。そうやって後悔し続ける。朝起きてこの文章を読み直して、シラフなのにどうかしていたなと恥じらい、また後悔する。そんなくだらない穏やかな夜こそが極上の幸せである。
おやすみなさい。

ラジオの話。「村上RADIO」と「アッパレやってまーす!水曜日」

ラジオ

全国のラジオをiPhoneで聴ける時代

村上春樹がラジオ!?

今日は村上春樹がラジオをやって話題になってましたね。私も聴きました。声のイメージが違っていたのでちょっと違和感を感じましたね。もっと高い声を想像していました。顔は知っているけど声を聞いたことがない人ってよく考えるとあんまりいないですね。そう考えると歴史上の人物は当てはまりますね。顔は知っているけど声は知らない。まあ顔も写真がない時代は本当に実像なのかわかりませんが。歴史上の人物はどんな声なんでしょうか。坂本龍馬とか写真は見たことあるけど、声はどうなんでしょうね。意外と甲高いと嫌ですね。
なんでまたこのタイミングでラジオをやったのでしょうか。村上さんはメディア嫌いのイメージがあったので意外でした。けれど走ることと音楽は彼のイメージにあっているので、イメージ通りのラジオでした。特に音楽はラジオと相性が良いので良かったですね。実際曲がたくさん流れていました。確かに考えると、テレビ出演だと音楽紹介とかはあんまり向いてなさそうですね。だからラジオにしたのでしょうか。個人的にはもうちょっと作品の話をしてほしかったなと思いますね。どうゆうことを考えてたら、あんな感じの作風になるのかは不思議でした。これからもちょくちょくやるのでしょうか。ラジオ一回聴いたくらいでは、人間性とか作家性は全然わかんないですね。何回も数を重ねて初めて個性がわかるというものです。村上さんはジャズバーやってたのをやめて専業作家になったというのは有名な話ですね。やっぱりジャズは私には難しいです。ノルウェイの森の話をちょっとしてましたね。あの曲を思い出すみたいな。最近の作品の話をしてほしかったなー。とちょっと思いました。

 

最近おもしろいラジオ

ラジオといえば最近「アッパレやってまーす!」という番組にはまってます。
番組はいろんな芸能人が各曜日を担当してのトーク番組ですが、これの水曜日ばかり聴いてます。
とにかくおもしろい。出演者はケンコバさんとアンガールズとAKBの柏木由紀さんが出ています。とにかくお笑い寄りの番組なので、気を張らずに聴けるのが良いですね。アンガールズ田中さんとケンコバさんが、ひたすら下ネタで柏木由紀さんと筧美和子さん(曜日移動されました)にブッコミしまくるのがツボにはまってます。バカバカしいけど楽しい雰囲気がたまらない。学生のサークルの飲み会でだべってるような楽しさ。
ケンコバのおもしろさ。アンガ田中との相性が抜群です。
それだけだと話題がなくなりそうですが、女性陣に定期的にセクハラ全開の下ネタを無茶振りすることが今の時代は逆に新鮮ですね。また、たまに山根さんが冷たい人間性を覗かせたり、かと思えば子煩悩で良きパパ&愛妻家ぶりを見せたり、各キャラクターのバランスが絶妙で飽きることがないですね。

筧美和子長州力のモノマネは必聴

過去のアーカイブを1年分順に聴いたりしていてます。このメンバーで曜日が変わらないように願ってます。筧美和子さんがいなくなったのはとても残念です。筧さんも意外なモノマネで(基本無茶振り)面白かったです。美輪明宏さんの真似とかもおもしろかったのですが、特に長州力のマネがおもしろすぎました。長州力橋本真也の喧嘩が元ネタで、タココラ!!と絶叫する声が吹っ切れていて、かつ可愛いので聴いてみてください。(元ネタは「コラコラ問答」で検索するとyoutubeで見れます。)
「何こらタコこら!!マスコミ使って何がやりたいんだコラ!!」というのが「マスコミ使って何タココラ」と意味不明な改変がされたりしてやばいです。


リスナーの悩み投稿→筧さんのモノマネアドバイスというシンプルな流れです。
例えば、お風呂に長く浸かってられないという悩みハガキに対しては、「何こらタココラ!一生風呂に浸かってろ!マスコミ使って何こらタココラ!」という後半わけわかんなさが吹きます。
他にもあき竹城と渡辺えりの見分けがつかないから良い方法がないかという悩みも「そんなの必要ねえ!マスコミ使って何こらタココラ!」という一刀両断ぶり。
「正月休みはパズルでもやってろ!」や「何タコ、タココラ!」と逆になってわけわかんない時などもありました。なぜかカニも追加されだしたり「何タココラかにー!」という回もありました。とにかく全力で叫ぶのが可愛くておもしろいです。

また、このラジオ「アッパレやってまーす!水曜日」を語る上で外せないのが、「質の悪い女」と「お笑いマナーうるさ人間」の話題でしょうか。どちらも鉄板の外せない話のためコーナー化もされています。今度改めてまとめて紹介したいと考えています。気になる方はググってみてください。とにかくこの愉快なメンツの揃う水曜日を一度聴いて見てください。修学旅行の夜とかに、先生に内緒で暗い部屋に女子を呼んでこっそり面白い話をするような雰囲気を楽しめます。
最近は地上波はコンプライアンスの関係で、ど下ネタもなければ表現は柔らかめで、刺激が足らないですよね。そんな時に聴いてみてください。昔の地上波の深夜番組のようなバカバカしい笑いを楽しめます。気が重い日曜の夜にオススメです。

 

本 クランボルツに学ぶ夢の諦め方 ☆☆☆☆

そもそも夢って何だ

すごい話でした。お笑いで成功する芸人を分析している。成功レベルに至るには100万分の1とかの運。フェルミ定数や統計学のような考え方で、成功者を突き詰めると、あるレベルに達する。ある程度の成功をするお笑い芸人は、学生時代同じクラスのコンビばかりと言う結果に。すべてではないが、その傾向が高いらしい。実力もすごいが、成功するコンビが揃うクラスはものすごい確率で奇跡のようなクラスだな。

つまり、レジェンドクラスの成功者になるには、運も実力も努力もすべてが必要。ひとつでも欠けると凡人に。


夢を叶えるために夢を諦めよう

そもそも、この本を読むことに至ったのは下記の記事を読んでそんなことを考えました。

www.outward-matrix.com

人生とは思い通りにいかないものです。夢が大きければ大きいほど、現実のギャップに苦しむことになります。だから叶わない夢なんて捨ててしまいましょう。遠すぎる目標は自分を苦しめるものです。今できることだけをやる。シンプルに目の前のタスクに集中する。そうすれば何か小さなことが変わる。それを続けると結果的に夢に繋がる。そんなものではないでしょうか。
そんなことを考えていると、この本に出会いました。

クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方 (星海社新書)/海老原 嗣生
計画的偶発性理論やクランボルツ理論と呼ばれる考え方で、夢などの目標は実は自分で選んでいるようで実際は偶然出会ったものの積み重ねなんだそうです。またそれらの目標は常に変化し続けるものらしいです。
確かに考えて見ると、今の自分がいるのは大まかな方向性は自分の意思で決めたものが大半ですが、実際にその方向性は偶然出会った本など外から得たものが大半を占めています。
この本を調べてた時に、見かけた『山の頂上に登るのでなく、山の頂上にいることを知ってもらう』みたいな、松本人志さんの考えがあるそうです。確かに、なるほどなと思いました。自分が何かを目指すのでなく、今いる場所を確かなものにして人に知ってもらうみたいなイメージでしょうか。

下記の記事も参考になりました。

www.lifehacker.jp


どんな仕事もある程度の成功者は必ず出るというのは当たり前で、そこの入り口に立つまでが難しいというような感じでしょうか。大企業の部長や、一国一城のお殿様になるのはその土俵に立てるかが大事なんですね。狭き関門。

成功者はお笑芸人も藩主も上場企業の部長も2、3割は成功者になるとのこと、まずはエントリーできる時点で恵まれてる。
ではいわゆる負け組は幸せになれないのだろうか。それは違う。負けも勝ちも、それぞれ価値観が変わっていくからだ。どんなに億万長者になれたとしても、本当に心を満たすことができなれば空虚な人生になってしまうからだ。逆にお金持ちにはなれなくても本当に大切な家族と幸せを築くことができれば、それ以上の幸せなんてないかもしれない。つまりは人生において様々な変化の中で、自分が何に価値を見出して生きていくか、どんな夢を叶えどんな夢を諦めるかという妥協点を見つける。線引きをする。それが人生の価値。
けれど幸せを感じることはできる
不思議。
計画的偶然性理論、犬も歩けば棒に当たる、つまりやってみた。キャッチアンドリリース。ヒットアンドウェイ。いきなりすべてがガラッと変わるのでなく、どんなことも少しづつ変化を与えて、継続して身についていく。継続が難しい。例えば毎日ブログを書こうと決めても、毎日減食して運動しようと思っても、次の日にはできずじまい。そんなことばかりあります。とにかく楽な方へ逃げるのが人間。

努力あってこその幸せ、それが一番大変

ビートたけしさんの名言も良かったですね。
努力は宝くじを買うようなもので、当たり券を買うことではない。
これは深い。確かに努力をすると、さも成功に結びつくと思ってしまいがちです。そして失敗に終わると努力が嫌になってしまいます。しかし、そもそも成功すると言う前提が間違っているのです。努力したものが成功するわけではないが、成功者は皆すべからく努力している。と言うはじめの一歩の名言もありました。努力=成功ではありませんが、努力しないと成功は絶対にしない。それが人生の厳しさですね。報われなくてもバッターボックスに立ちバットを振ることに意味があるのです。球が当たらないからと言ってバッターボックスから逃げるのと、当たらないとわかっていてもバットを振り続けることには、球が当たらないと言う同じことでも、雲泥の差があるのですね。

違う本ですが百田尚樹さんの本で「やってないことは出来ないと同じ」みたいなことがあった気がします。確かにいつでもできるから後でやろうみたいな考えは、つまり言い訳なんですね、いつでもできるというのは甘えですね。できないことから逃げている。それがどんなに簡単なことでも。例えば3キロ走ろうと思っていても、3キロくらい余裕だから今日はやらなくていいやみたいな思考になる時があります。それはつまり、やってない時点で、3キロ走るという簡単なことさえもできないということなんですね。そんな簡単なことさえ今のあなたはできていない。逆に言えばたった数分でも走ったならば、そのことにものすごく意味がある。毎日のちょっとした習慣が人生を変える。夢を叶えるゾウの本でもそんなこと書いてありました。いきなりすべてががらっと変わるわけではない、夢に向かって少しずづ習慣化し、生活の一部自分の一部、やらずには入れない状態になった時気づけば夢は叶っている。水木しげるさんがやらずにはいられないことをやりなさいと言っていました。つまり誰のためでもなく、極端な話自分のためでさえない、無心で夢中でやらずにはいられない体が勝手に動くくらいの自然な習慣。それくらいまで体に染み付いていることが自己実現に繋がるのでしょうね。アスリートなんかはそれを子どもの頃からやっているから超人になれるのでしょう。

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私も一時期サボっていたブログなど創作活動がやり方を工夫することで、毎日勝手に更新できるくらいに無心でやれるようになってきました。それはいいリズムになってきています。それをもっと他にもやりたいこと(ダイエットなど)に応用できる方法を探しています。まあ無理のないように。

夢の中で

夢の厄介なところはやりたいと思ってしまったら、何らかの挑戦と結果を見ないことには生煮え状態になってしまうことです。叶わない夢でも成仏させてあげないと人は次に進めないのです。それを節目やけじめというのでしょう。

夢は甘美だけれど、その陶酔感の蜜の中に居続けてはいつか枯れてしまう。いつも流れさせ循環させ代謝させ続けないといけない。濁った夢では錆びてしまう。だからいつまでもその甘美な夢に浸っていたい。
そしていつか自分を取り囲む冷たく厳しい現実を、甘美なる夢で満たしたい。もっともっと夢を大きくして自分から溢れさせ、現実に影響を与えるレベルで流れ込む。現実を夢に染め変えること。それこそが生きる意味なんだろう。夢と現実の境界はそこにある。

 

 

映画 キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン ☆☆☆☆

ディカプリオ作品にハズレなし

なんというおもしろさ。若きディカプリオのかっこよさ。ディカプリオの作品はこの頃からなんというか、脚本にこだわったものをチョイスしている感じがする。レヴェナントやギャングオブニューヨークも、シャッターアイランドも、インセプションも。みんな話がしっかりしている。どちらかというと男性的な作品が多い。硬派というか渋いというか。男性が好きそうな内容だ。
父との友情を描いた反面、母親への失望が根本にある気がする。
トムハンクスが相変わらずコミカル。
二転三転のおもしろさ。最近こんな感じで気軽に見れておもしろい映画は少ない。ハングオーバーとかはコメディすぎるんだよな。
これが実話ベースというのがまたすごい。
空港で逃げるシーンにて「嘘の中で生きる方が楽だ」このセリフがめちゃくちゃ刺さった。本当にそう思う。どんなに金を得ても、虚栄にまみれた人生では、誰も自分について来る人がいない寂しさ。

嘘の中で生きたい

できることなら人は空想の世界に行きたいのだろう。想像こそが、創造に繋がる。人はいつも理想を描き、現実にしようとする。それがすべてとも言える。誰だって憧れの人の模倣をする。そうやって自分を作り上げていく。

泣きそうになる気持ち。すごくわかる部分。共感できる部分。人は思い通りにならない人生の逆境に当たることはある。それを乗り越えるために嘘をつくのだろう。自分で認めたくはない。認めてしまうことで、守ってきた何かを無くしてしまう。たとえ間違った選択だとしても。そうなることが、そんな人を否定はしたくない。私だってどこかで自分を偽っているところがある。
間違った選択をした人を非難したくはない。罪を犯すことは許されないけれど。その葛藤の中に困難の先に人間とは何かが宿っているような気がする。
人間とは何かということを考えた時、火を扱う、言葉を使う、文明を営むあたりがあげられるだろうか。
しかし、それ以上に人間を人間たらしめるものに、自ら変化を与えられるということがあるのではないか。望めば、好きなところへ行き、自分の生き方を変化させられる。本能に導かれた本来の生存方法、それ以外の道を選べるのは人間しかできないのではないだろうか。動物が進化するには何年もかけて、何世代にもかけて徐々に変えていく。(例外もあるが)しかし、人間はまるで違う方向に自分を変化させることができる。だから空想があるのだろうか。いつだって憧れのヒーローやヒロインを思い浮かべている。子どもの頃からずっとそう。人間はモノマネをする生き物。自分がこうなりたいと思うメンターを見つける。そして真似る。フィクションや物語が人類史の初めからずっと存在するのもそうなんだろう。人は一人で生きられない、そして目指す憧れがなければ、また生きれない。生きれないというよりは、ただ生存だけなら衣食住あればそれでもいいのだろうが、文明や社会を築くためには、憧れの対象がないとどうしたらいいかがわからない。卵が先か鶏が先かみたいな話になるが、憧れられた人もまた、憧れた人がいるのだろう。そうすると憧れた人の憧れた人をたどっていくと最終的にどこか一人にたどり着くのだろうか。それを神と言うのだろうか。あながち間違ってない、神の定義は人それぞれだが、全知全能で万能な存在。まさにイデアそのもの。人々の望む美と力の根源。全ての理想=イデア。だったかプラトン曰く。

私は現実で生きれるんだろうか

ディカプリオ様は最後立ち直ったけども、私は現実を受け入れていけるのだろうか。いつも本当に人一倍困難が多い気がする。それに拍車をかけてマイナス思考だからタチが悪い。こけた人が悪いのでなく、立たなかった人が悪いみたいな名言がある。ほんとそう、どんなことも立ち上がることが本当に辛い。私はこけてばっかり。だから立つ回数も多いから疲れてしまう。ずって寝ていたい。
そもそも現実で生きるということはどうゆうことなんだろうか。現実なんて、社会なんて、国家や文明なんて、あってないようなもの。養老先生の脳化する社会というか、すべてのコミュニティは人の頭が作り出したもの。想像の世界の共有が現実ならば、現実も想像も境界線は実は曖昧。それでも線引きをする必要があるから、そこにストレスがかかりしわ寄せが、歪みがどこかに生まれる。パワハラやセクハラがどんなに蓋をしてもなくならないように、人間の本質を無理に閉じ込めても、どこか違う場所から吹き出す。だから少しづつ息抜きが必要なんだろう。ストレスも溜め込まないように、逃げ場所が必要なんだろう。

映画 ロボコップ(1987年) ☆☆

80年代の乾いた空気感

ある意味現代のAIに通づるものがある。さすがに時代を感じる。今の若い人が見たらレトロすぎておもしろくないかもしれない。チープに見えるかも。しかし、ロボコップの装備は意外と今見てもかっこいい。この時代のアメリカのなんとも言えないかっこよさを感じる。80年代の空気感というか。ターミネーターやボン・ジョビみたいな。メタルとかロックという言葉。スーパードライみたいな。乾いた銃声が鳴り響く深夜のデトロイトとかの街並みがイメージできる。デトロイトというAIを描いたSFゲームが最近出たのもまた感慨深い。
アクションシーンはかなり血が出る。滅多撃ちとはこのことかというくらい撃たれまくる。最初あまりに撃たれて血まみれすぎて逆に笑ってしまった。現代の映画ではなかなか見れない演出に吹いた。派手さが良い時代。

 

美術や演出がまた良い

ストーリーは王道中の王道。勧善懲悪とロボコップになったことへの葛藤。ヒーロー万歳。ポップコーンムービー。
ロボのロボ感が素敵。まさに王道中のロボ感。THEロボって感じ。ロボ感が欲しい人にはたまらないロボ感。もうロボロボし過ぎて愛おしい。いとおかしいロボ感。憎いほどロボ。

この時代の人たちの描くロボといえばこんなメカニック感だなあ。メカニカルでテクニカル。メタリック。インタフェースから見える情報とか、タイトルのフォントとかメカメカしてていいなぁ。メタリックというか、ステンレスっぽさというか。当時は機械っぽさこそが、メカっぽさであったかもしれないが、これからはより自然っぽさがメカっぽさになるんだろうか。AIとかアンドロイドとか、より人間らしさに近づいているから。いつか見分けがつかない時代も来るのだろう。その転換期に生まれた我々の意味はなんだろうか。命とか人間の尊厳とは何か。みたいなことはこれからさらに重要なテーマになりそうですね。
脱線したが、頭とか肩とかの造形が意外と丸っこく艶っぽい曲線がまたいいな。今だったらもうちょっと角ばりそうだな。日本だったらツノついてそうだな。世紀末とか、北斗の拳とか、マッドマックスとか。世紀末とロボットのいろんな要素を足してテカテカに丸っこく磨き上げたのがロボコップという感じ。


最後が笑えた。戦いの武器に、棒VSロボコップの尖った部分という原始的な戦い。そして尖った部分で、敵を刺し、さらに尖った部分を会議室のモニターにぶっ刺して、映像を表示させる端末的な役割。人間USB。しかも尖った部分は血まみれなのにちゃんと動作するという高性能さが笑えました。荒くていいな。

 

以下引用

公開当時、一見ヒーロー映画にも関わらず、激しい暴力描写でR指定を受けた[9]ことなどが話題になった。また、純粋な娯楽作品に見える本作の秀逸な設定に、多くのSFファンが唸った[要出典]。それは“主人公のロボコップ=マーフィー巡査が「法医学的に死体の状態で機械的に復活した人間」である”というものである。当時は、サイバーパンク系のSF作品が流行しており、それらのファンから“「死を克服したヒーロー」ではなく「死んだ状態で生前の意識を持ち、葛藤しながら闘うヒーロー」という設定が、非常に明快なサイバーパンク的描写である”と評価された。[要出典]劇中においても、主人公は機械的に「蘇生」したわけではなく、単に「死体の状態での細胞死を迎えていない新鮮な生体部分を、ロボットの部品として利用されている存在に過ぎない」「彼は法的には死体であり、人権はない」と描写されている。

確かに意外と王道ではないということに気づかされる。思った以上に葛藤する主人公。ベタなサイバーパンクと思ってなめてかかっていたが、しっかりと内面の描写や葛藤も描かれていたんだな。今でこそロボットの自我の葛藤はベタかもしれないが、当時では斬新であることがわかる。ロボットは操るものという認識から、より人に近づく時期というか転換期だったんだろう。

話は変わるが、インターネット検索のSEOとは検索ロボットという機械のために機械にうけるための文章を人間が機械の真似をして書くみたいな話があった。こうなるともはや人間とは何か、人間が機械のために機械っぽく振る舞うという本末転倒な世界がやってきそうだ。いつかヒューマンコップというタイトルで人間が警察官役をやる映画ができるかもしれない。

 

忘れたくない、とうもろこしのこと

とうもろこしを家で美味しく食べるには茹で方にコツがあるという。最近何かでみた。テレビだろうか。茹でるというよりは、電子レンジを使うらしい。しかも皮付きでチンするのがいいらしい。皮が熱くなって危なくないのだろうか。ちょっと怖いが、調べるとたくさん出てくる。最近はググルとなんでも出てくるから便利だ。皮付きでチンするとそのままつるんとヒゲも剥けるらしい。ヒゲの処理は意外と面倒なのでこれはありがたい。しかも普通に茹でるより甘みが増す?のだろうか、本当だろうか。なるほど、理にかなっている。500Wで5分加熱でいいらしい。そういえば電子レンジは壊れていた。